わぎょうの日記

アニメ・映画・雑記ブログです。

若き頃のGW

 どんどん記憶が薄れゆき、あの20代中頃だったが、青春と呼べた時代が忘れ去られようとしている。

歳も取ったり半世紀越え、今じゃ老害と呼ばれる歳になってしまった。

最近バイクで旅をしている方達を見かけると、昔の記憶がひょっこりと顔を出すのである。

89年12月にYSPで、FZR400RRの展示車を見た。

もうそれはそれは、魅力に溢れたレーサーレプリカだった。

赤白で、アップルレッドと呼ばれる赤、そしてパールホワイトが目から離れなかった。

更にダメ押しのEXUPと純正カーボンマフラーの排気音

それほど悩まずに衝動買いした。

納車してからはメッチャ走った。

慣らし運転も早々に終わらし、休みになると東京都内を8時間休憩なしで走りとおし、

伊豆半島1周とか箱根から御殿場とか良く走った。

 

90年ゴールデンウイーク 

金も無いのに北海道へ帰郷がてら2度目のソロツーリングと洒落こむ。

仕事が終わってから寮で仮眠を6時間ぐらい取る、そして夜中の0時頃に出発した。

国道一号を走り上野に向かい、そこから浦和ICに向かった。

都内はそんなに詳しいわけではない。よく上野のバイク用品店やアメ横に遊びに来てただけだし、250㏄のバイクで1回帰郷しているので、ほぼほぼうろ覚えでしかなかった。

浦和に着いた頃は何時だったかはもう定かでわない。

たぶん時計を見る間も惜しんで高速に入り、東北自動車道を北上するのであった。

あの頃はナビもないしETCもないから、地図は休憩ごとに大まかに記憶して、ウエストバッグ装備で支払いしやすくなんてしてたかな。

最初はノリもあるから調子が良い、ずんずん進んで行く、ワイアレスウォークマンで爆音再生だから余計にノリが良い。

宮城過ぎた辺りで、流石に疲れが出てきたようだ、どこだったか忘れてしまったがトイレしかないSAに立ち寄った。

流石はレーサーレプリカ、股が足がお尻が痛い。

痛いよりもその時は無性に眠かった。

縁石を枕にして愛車の横で寝てしまったのだ、今時なら信じがたい行動だと思う。

まあ それくらい眠かったのだ。

高速道路の清掃する方々かな?起こされました。

「こんな所で・・大丈夫かい?」

いやぁ~あの時はちょっと寝ぼけてたので、なんて答えたのやら

確か起きたのは15時くらいだった、推定睡眠時間5時間くらいかな、なんて不用心だったか、何も取られなかったのは幸いだった。

さぁそこから一路青森へ、何せ行き当たりばったりのツーリング、船の予約なんかしちゃいない。

なんて運が良いのだろう函館行きの最終便に間に合った。

乗り込んだら、あっとゆう間に寝てしまう。気が付いたらもう着いてるとゆう事態だった。

函館はすごい土砂降りだった。

電話ボックスを探し父親に今帰ると電話する。

大沼から長万部までは非常に眠くなった、だがGWでも北海道は寒い、所によっては雪がチラつくところもある。

眠いのに寒さのほうが強いので目が少しづつ覚めてきた。

森町を抜けると雨は止んでいた、国道5号線を走り、国道37号線を寒さに耐えながら走る。

時折エンジンに手袋履いたまま手を置く、信号待ちの時は効果的だ。

伊達を過ぎた辺りで道路脇に目が行った。

雪が少し残っていたのだった。ぎょっとしながらも道路凍結してるかもと思いながら、スピードを抑えめにして走った。

室蘭と登別を過ぎ、幼少期によく来た場所、虎杖浜温泉ホテルやジャングル温泉を横目に昔住んでいた竹浦、萩野と抜け生まれ故郷苫小牧へと辿り着いた。

大体錦岡辺りに来ると急に道幅が広くなるのですぐに実感が湧く、家まではまだまだ先だが片手を挙げてガッツポーズをする。

出発は29日の深夜0時、到着は翌日の朝7時か8時だったと思う、あそこで寝なかったら一日で到着したかもと今に思う。

次の日は、札幌の里塚に住む友人を訪ねることにした。

しかし神奈川に体が慣れたせいか寒い。びっくりドンキーで語らい別れた。

親と交流する間もなく、あくる日に帰路につくことにした。

いつもの事だが強行軍が好きなようだ、函館までは来る時と同じく下道で行く。

函館港からフェリーに乗り青森へ、青森からは中学の修学旅行の記憶辿り、八甲田山奥入瀬ルートで十和田湖に向かう。

時間は確か朝5時位だったかなぁ、記憶がはっきりしない。

奥入瀬渓流辺りの時は朝方通ったのだけは憶えている。

奥入瀬渓流に入ってから、妙な感じがしてならない、自然の中を通る道なので朝方だとちょっと薄気味が悪い感じがしてる。

八甲田山って兵隊が遭難してるし、以前バスガイドの方の奥入瀬渓流の昔ばなしとかが

おれの頭をよぎっているのも確かだ。

ヘルメット越しの風切り音がなんかそれらしく聴こえている。

恐怖感が高まって、人の声とかに聞こえていたのだった。

早くこの場所から離れて、開けた場所へと心がはやったものです。

それだけ怖かったのです。

十和田湖を抜け発荷峠の展望台に着いた頃、空には青空が出てました。

そう記憶になってる。

中学の時も思ったが良い眺めだ。

そこから、どう行ったか分からないが八幡平アスピーテラインに向かう。

ここも走りながらの眺めは最高だ。

ここから先はお尻の痛みと闘いながら、休憩しながら平泉、東京へと南下していく。

確か一関ICから首都高、横浜新道と走ったと思う。

寒川に入ってからは線路で渡る時扱けそうになったことは忘れはしない。

めっちゃ足で踏ん張って回避したからね。その時の激痛が印象付けたようだ。

寮に着いたのはもう夕方だった。

自分の部屋に行かずに友人の部屋へ、ただいまの挨拶と共にそのまま寝てしまったらしい。

友人によると起こしても起きず、飯も食わず2日間寝ていたようだ。

やっぱり旅は計画的にしないとだね。と今では思う、反面若かったんだな思う今日この頃である。